2010年2月23日
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
『論考』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインはこの本を書き終えた時点で哲学の問題は全て解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に哲学を離れてオーストリアに戻り、出征していたころから希望していた教師になるため1919年9月から1920年7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する。
教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのはウィーンの南にあるニーダー・エスターライヒ州の比較的に発展した町マリア・シュルッツの学校であった。しかしウィトゲンシュタインはもっと田舎へ行きたいとみずから希望してそこから近い村トラッテンバッハ(Trattenbach)へ赴任することとなった。
ウィトゲンシュタインの教育方針は紙の上の知識よりも子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。理科の授業では猫の骸骨を生徒と集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測をしたり、自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりした。銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった。また、数学ではかなり早い段階から代数学を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針に対する改革が社会民主主義者たちによって進められていた時期だったのである。
しかし、こうした動きに農村などの保守的な地域では反発も生まれており、独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインもまた地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため、保護者たちはよそ者のウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。
1922年にはハスバッハ村の中学校へ転勤するが1ヵ月後にはプフベルクの小学校へ移る。このころからラムゼイやケインズらと書簡を交わして旧交を温めはじめている。1924年、トラッテンバッハの隣村オッタータル(Otterthal)へ赴任。この地でウィトゲンシュタインは『小学生のための語彙集』の編纂に着手した。オーストリアの農村で話されるドイツ語は標準ドイツ語(Hochdeutsch)とは発音が異なるので、それにともなって子供たちはしばしばスペルを間違えた。従来の教育法では生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかったが、生徒がみずから学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして約2500項目からなる単語帳を作成した(既存の辞書は多くの語彙を含んだ高価なものしかなく小学生が使用できるものではなかった)。これを参照することによって生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。この『小学生のための語彙集』は1926年に刊行された。生前に出版された彼の著書は『論考』とこの辞書だけである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
この方の思考はいろいろな人たちに大きな影響を与えたようです。
スポンサーリンク118
デリヘル デリヘル 名古屋 大阪のデリヘル
東京 デリヘル 銀座 豊島区 デリヘル アロマリラクゼーション
エステ 格安 保証人協会 東日本協会 性 風俗 研究所 渋谷 高級
性 風俗 研究所 OLコスプレ 品川 デリヘル 五反田
- Permalink
- by
- at 13:03